第143回 芥川賞選評

 私が選評を書かなかった前回、芥川賞は該当なしであった。駄作ばかりだったから、選評を書く気になれなかったというつもりではない。しかし、綿矢りさ金原ひとみの同時受賞に味をしめて以来、この賞のノミネートが実力よりも話題性を意識するようになってしまったのは事実であろう。そういった意味で「該当作なし」は、編集部への審査委員からの警告として解すべきである。そして今回、その警告を受けた編集部がどのように応えたか、受賞作よりもその候補作に興味がそそられた。
 今回の候補作は、赤染晶子乙女の密告」(新潮6月号)、鹿島田真希「その暁のぬるさ」(すばる4月号)、柴崎友香ハルツームにわたしはいない」(新潮6月号)、シリン・ネザマフィ「拍動」(文學界6月号)、広小路尚祈「うちに帰ろう」(文學界4月号)、穂田川洋山「自由高さH」(文學界6月号)の6点である。女性4名はいずれも候補となった経験があるのに対して、男性2名はほぼ新人である。ネザマフィを除いた女性3人は既に自分の書き方を固めているのに対して、文学界の3人の作風はなお流動性が残る。そういった意味で、6者6様の、どちらに転んでも当選者を出せるような仕掛けに思えるのだが、私見としては、本命:鹿島田真希、対抗:広小路尚祈としたい。
 「その暁のぬるさ」の鹿島田真希は、同レベルの賞を総なめにしている十年選手であり、おそらく最後の芥川賞選考会となろう。この作品が、これまでと比べて特別に斬新だとはおもわれなかったけれど、保育士の合コンのシルエットでありながら、話題が展開するにしたがって存在感を増す過去の失恋の取り上げ方の巧さには舌を巻かされた。その失恋は一人旅の小話が挿まれる程度のたいそう抽象的なものであるにも関わらず、荒削りの心情描写が論説的でなく心に響いた。
 「うちに帰ろう」は、主夫が公園の主婦仲間と関わっていく話。心中しようとする主婦に付き合わされるなど、笑いどころもあり、その主夫という立場からみる感覚は新鮮である。しかし、ゆっくり考えてみると、鹿島田の巧さに対抗できるのが広小路の人生経験の豊富さであり、その多様なものを包括する鷹揚さが文章力をカバーしているようでもある。
 シリン・ネザマフィはイラン人であるから候補作発表以来、最も取り上げられることが多い。軽い気持ちで通訳を頼まれたら死の通告をさせられたという展開そのものは自然だけれど、私は彼女の日本語が上手ではないから、この賞にはまだ早いのではないかと思う。言葉は文法的に合っていればいいというものではない。彼女の作品の言葉のリズムには、言葉にできない雰囲気を伝える力はないのだ。
 「ハルツームにわたしはいない」は、詩的な行間のメッセージが強い作品ではあるものの、純文学の使命が人間とは何かを問いかけるものであるとの前提に立てば、短さのゆえもあり、その使命を果たしているとはいえないと思う。「乙女の密告」は、作者の京都外大での学生経験とアンネの日記についての洞察を重ね合わせており、その構成は悪くないものの、独りよがりな印象は否めない。作品の完成度を高めるためには、教授の個性をもっと掘り下げて、それによって乙女達のそれぞれを浮かび上がらせるべきだったと思うのだが、“乙女”は言葉遊びに終始してしまった。「自由高さH」は、第二席で文学界新人賞を受賞したにも関わらず今回ノミネートされた幸運児であるが、企業家一族の歴史が何を語っているのか、私には理解できなかった。

 選考委員会は、きたる平成22年7月15日(木)午後5時より築地・新喜楽で開催される。