旅行の荷物

 私にとって、最初の海外ひとり旅はインドだったけれど、このときはトランクを引っぱっていった。施錠できる頑丈なトランクは非常に重く、舗装が充分でないインドの砂利道で車輪はすぐにダメになった。金庫代わりの安心感はあったけれども、トランクごと盗まれる危惧までは払拭できず、いつもトランクと体が接触しているよう意識していた。
 その後、毎年の海外旅行の中で、私の荷物は徐々に少なくなっていった。荷物が少なければ、体力の消耗が抑えられ、機動力が飛躍的に伸びる。出発前の荷物の吟味は、そういう意味で時刻表の精査と同様、旅を豊かにするものだろう。
 もっとも絶対に必要なものはある。まずパスポート(国によってはビザ)、往復の航空券それに現金。よくトラベラーズチェックが勧められているが、私は一度も使用したことはなく、その代わりにクレジットカードを持ち歩いている。現金は財布に二割、荷物の中に二割、貴重品袋に六割と分けて保管する。空港でレンタルする国際電話のできる携帯電話も有用だ。アクシデントに見舞われることを考えると心強いが、それ自体が高価なものであるために保管に神経を使うこともあり、行き先ごとにレンタルするかどうかを判断することにしている。携帯電話のレンタルをしない場合は、自分の携帯電話が変電機なしには充電できないため時計代わりに使うことができないのだから、腕時計を持っていくことが必要となる。
 旅行ガイドは、意外に重量があるので置いていきたくもなるが、できる限り2冊は持っていくことにしている。汪文社のガイドと地球の歩き方は、コンセプトが違うため両方を検討材料とすることで旅の計画はより精緻なものとなる。カメラも旅行に欠くことのできないアイテムだろう。ただし、私はデジカメではなくインスタントカメラを持っていくことにしている。自分が写真に納まるためには、見知らぬ現地の人に撮ってもらわなければならず、ただ押すだけであり、貴重品でもないインスタントカメラの方が彼らにはお願いしやすいからだ。あとは、ムックリを一本持って行くことにしている。現地で仲良くなった人に日本の楽器だと言って弾いてあげるととても喜ぶからだ。
 旅の荷物で最もかさばるのは衣類だろう。私は、旅先では少々服が臭くても仕方ないと思うのだが、それでも一週間同じというわけにはいかない。だからといって代えの服をたくさん持っていくと重いので、数日に一度は安宿や車中泊ではなく高めのホテルに泊まることにしている。高いホテルが気分転換になるのはもちろんだが、浴室で洗濯し、ドライヤーで乾かすことができるからだ。ドライヤーを使わずに洗濯すると生乾きの服の入ったバック全体に細菌が増殖してしまう。数日に一度洗濯をするのであれば代えの服は上下一着で十分だが、どうしても心配なら現地調達を考えればよい。いざとなれば買えばよいと思うことで、荷物を減らす際の心理的な抵抗は小さくなる。なお、パンツやシャツを続けて着ることは大丈夫なのだが、私の場合、靴下だけは毎朝新しいものでなければ気が済まない。よく歩くので汗を吸い、他のどの下着よりも臭くなりやすいということなのだろうけど。そのため、靴下だけは旅行日数分を百円ショップで購入し、使用後は廃棄することにしている。モノを粗末にすることで心は痛むが、バックの中を発酵させるわけにはいかないのであり、その空いたスペースには日本へのお土産を入れることになる。
 最近では肩掛けバックとリュック、それに首掛けの貴重品袋だけで旅をするようになった。バックに入れるのは衣類など盗まれてもいいものに限定すれば、バックをホテルに置いて市街を歩くことができ、行動力はアップする。
 このような荷物のリストアップは、私が個人的経験から導き出したものであるから、旅のスタイルが異なれば持って行くものも当然に異なる。しかし、何を持っていくかを検討するということが旅をより充実させるのは、普遍的な事実だろうと思っている。

市営地下鉄

 JRの一日散歩切符は、近郊の普通列車が乗り放題で一日2200円、いろいろと使い勝手がよい。これに対して札幌市営地下鉄のドニチカ切符は乗り放題で500円。それでも、魅力的な商品には感じられない。魅力的でないのは、切符の特性というより、地下鉄の路線そのものに問題があるからだろう。地図を眺めても地下鉄の沿線にこれといって興味をひかれる場所はない。

 札幌市営地下鉄三線のうちもっとも評判が悪いのは東豊線である。札幌オリンピックを機にはじめて営業した南北線と、以前から札幌の軸であった東西の交通において国鉄を補完した東西線。この十文字と比較して東区や豊平区の住宅地と中心部を結ぶだけの東豊線の役割はバスでも十分に代替できるものであり必要性に乏しい。しかも南北線が南南東を向いて、東西線が東南東を向いて走っているため、東南部においては三線がほぼ併走している地域すらある。札幌の街は明治の先人達が東西南北の整然とした礎を築いたものであるが、昭和の人口急増に対応できずこれだけ無計画な線引きを行ったことは驚きに値する。
 しかし、私自身はここで東豊線の不要論を唱えるものではない。問題なのは何ゆえ終着駅が栄町と福住なのかということである。栄町から丘珠空港までの距離は一駅分、福住から札幌ドームまでの距離もまた一駅分である。この一駅分の延長さえすれば、市営地下鉄は野球観戦にも出張にもごく身近なものになる。札幌駅前で丘珠空港行きのバスを待つ人の列や、日ハム戦後の熱狂的にファンの群れを見るたびに、路線延長には十分に需要があるだろうと思うのだが、札幌市の都市計画ではそうはなっていない。
 むしろ最近では東西線が琴似から宮の沢まで延長され、これをさらに西へ伸ばそうと考えられているようだ。札幌市の意向は明らかである。すなわち豊平区から分区したばかりの清田区を除けば唯一の空白域となっている手稲区に地下鉄を伸ばし、JRと接続させることで手稲を東の新札幌に対応する街に育てたいという方向性だ。しかし、手稲が新興住宅地として発展していたのは、昭和の時代の話であり、住宅地としての関心は今、石狩、北広島、札幌都心という全く異なる特性をもつ三つの地域に向いている。そういう時代に地域モデルではなく沿線人口や区割りで地下鉄の線引きをするのはナンセンスである。
 もっとも、交通路線の設定には政治的な要素が伴うのは必然であることから、お役所的な論理がまかり通っているであろうのは何も札幌の地下鉄に限ったことではない。例えば、北海道の国鉄は民営化の折にその大部分が廃線となり、幹線国道と併走していない線はわずかに釧網線留萌本線日高本線富良野線江差線を残すのみとなった。多くの路線の中でこれらのみが生き残ったことは、留萌・浦河・江差という支庁所在地をつないでいることと無縁ではなかろう。地方のJR線は地下鉄と異なり採算性がなくとも地域の財産として残すべきだろうと考えているので、これらの路線を存続させることには賛成なのだが、廃線ラッシュの際にどのような取捨選択をしたのかは問題意識を持つべきだと思う。例えば松前線ではなく江差線を残す決断にあたっては、函館から木古内までの区間江差線として換算し、江差線の方がより乗車率が高いという結論に落ち着いたという。このようなばかばかしい論理で、その後の地域のあり方そのものが大きく変わっているのであり、新幹線の延長を機にもう一度このことも議論しなおし反省すべきだと思う。

 地図に線を引く路線の設定は、地域づくりの根幹に関わることである。どういう地域にしたいか大きな理念がなければできることではなかろう。そういう理念を札幌市には提示してほしいし、われわれも市営地下鉄を他山の石としたいものだ。

財布の管理

 景気が一向に良くなる気配のないまま、既に金融危機から半年が経ってしまった。財政危機のため、われわれ北海道庁の職員は給与削減が続けられているが、今度は賞与の方も雲行きが怪しくなってきた。まあ、給料分の働きをしているかと叱られればうなだれるしかないし、このご時世なにを贅沢なことをと言う向きももっともなのであるが。
 入るを計りて出を制すというのが、サラリーマンの場合、入るほうは会社との関係次第なのですぐにどうにかなるものではなく、家計を管理することは概ね出を制することと重なる。私の場合、三つの家計管理策を併用することにしている。
 第一はクレジットカードの多用。私の使っているJALカードでは、200万円分の決済をするとそれだけで2万マイルすなわち中国往復航空券が入手できるようになっている。よくマイルをためる裏技などの本を目にすることがあるが、特殊な裏技よりも百円単位の買い物でカードを切る単調な動作が旅行への早道だというのが私自身の実感である。就職してからマイルをためての海外旅行は既に4度。また円高のメリットを享受しにいきたいものだ。
 第二は携帯電話のメール送信機能の活用。自分で設定したポイントを、宛先未定のメール原稿を更新するという形で、起床時に50ポイント足し、百円使うごとに(33円以下は切り捨てて34円以上は切り上げ)1ポイント引いていくことにしている。これは、1日の使用可能金額を5000円として翌日に繰越可能というシステムだが、このルールを厳守する限り、月換算で15万円と年換算で180万円を超える支出はできなくなる。大きな買い物も繰り越したポイントの枠内ですることに決めているが、ポイントを貯めることそのものに愛着がでてくると不急の出費は惜しくなってしまう。
 第三に新札の束の活用。現金が入用の際は、十万円を口座から一度におろしてナンバーが揃った千円の新札百枚に替えてもらうことにしている。銀行の両替費用は105円だから、もちろん携帯メールの数値は1ポイント引いて更新する。わざわざ手数料を支払うことは奇異に見られることもあるが、汚いお札を触るよりもきれいなお札のほうが気分がいい。重要なのは、お札のナンバーの下2桁を見るだけで手持ちの現金がいくらあるか知ることができるということである。毎日お札を数えなくても千円を使うたびに自分の手持ち現金の金額を意識することが習慣となる。
 ここに挙げた三つは誰に教わることもなく何となく習慣化している私自身の癖のようなものであるから、他人が同じことをしようがしまいが私には関心がない。それにもかかわらず、あえてここで挙げたのは、会計管理の原理に即したものであると自負しているから。携帯電話の日50ポイントチャージは、あえていうなら毎日決算をしていることを意味している。日単位で支出の穴埋めをしながら収入との均等を要求されるからだ。しかし、キャッシュフロー貸借対照表損益計算書とは別に管理する必要があることから、これを新札によって把握することにしているのだ。そのような二重の審査をしているから、クレジットカードの使いすぎで破綻などということは私にはありえない。
 出を制すといっても、それはただのケチということではない。財布の中を負担にならないように管理していくことこそが大切なのである。それで確かに私は支出を抑えることができたが、カネがたまったかって?金融危機で持ち株が大暴落してしまいましたよ。

更新拒否の嵐の中で

 昨秋の経済危機の頃から新規学卒者の内定取消と契約社員雇用契約更新拒否が大きな問題となっている。
 内定取消が社会経験に乏しい学生にとって大きな衝撃であるのは理解できるが、第一志望の会社の囲い込みにあって他社を回れなかったあげくに内々定をもらえなかった私としては、自分自身に引き比べてとりわけ特異なことであるとは思われない。そもそも、縁のなかった会社なのだから、入る前に関係を清算できた方がよかったのだ。新規学卒者を取り巻く環境は年によって大いに異なっており、もっと違う年に生んでほしかったと親を恨んでも仕方がない。その運命的な設定を、社会の中で修正していくことこそが20代30代に必要なのことである。
 しかし、雇用契約更新拒否は由々しき事態である。契約社員はそもそも使い捨てられる存在である(本人がその条件に納得して契約社員となった)という先入観のもとで必要悪、あるいは仕方のないこととして受け取られる雇用契約更新拒否の問題の方がより深刻である。それに、正確なことが分からないまま推定人数が月を追うごとに積み上がっており、その数は内定取消の比ではない。2009年問題などと言うが、雇用関係のタイムラグは法制度以上に大きく、とりわけ雇用契約書を取り交わすことも少ない中小企業の実態からすると、事実上の更新拒否により職を去らなければならない人の総計は、最終的に連合の試算をも上回るのではなかろうか。

 私は、4月1日付けで農政部農業支援課に異動するが、労働委員会では契約更新拒否や退職勧奨により離職する多くの労働者をみてきた。そこでは、労働者にとって辞め方が非常に大きな意味を持つことを毎度のように考えさせられた。
 多くの労働者が関心を示すのはハローワークの離職者票の取り扱いである。会社都合による退職であれば自己都合よりも失業保険の受給に有利であることから解雇の取り扱いにしてほしいと訴える方が多いのだ。契約期間満了であっても契約更新を期待できる特別な事情がある場合、あるいは退職願を提出していても会社側の働きかけに強制の色彩が強い場合には解雇とみなされるのだから、あながち無理な要求でもない。
 しかし他方で、退職前の時期に解雇撤回を求める労働者はほとんど皆無といってよい。「関係が悪くなって今さら職場には戻れない」「仕事をしながら会社に文句を言うのは気まずいから退職してから」などと言う。しかし、会社にとっても気まずい時期だからこそ、話し合いで折り合いをつける余地もあるというべきである。そもそも労働者が解雇を希望するというのは制度の趣旨を完全に没却している。労働契約法の立法議論の中で労働組合側が解決金の支払いによる解雇を条文化することに難色を示したのは、カネを払えば濫用に当たる解雇もできるようになることを恐れたからであり、カネも払わずに(解雇予告手当だけで)解雇してもよいという理屈ではないのだ。実質的には解雇に相当する契約更新拒否等を撤回させた上で、退職の有利な条件を引き出すことが労働者にとって合理的であるばかりでなく、法の趣旨に即したものでもある。

 率直なところ、労使紛争における労使間の力関係は、マルクス主義的な資本の有無や職場での指揮系統などだけに由来するものとは言い切れない。労働者が法制度を知らないということにこそ根源があるように思える。経済失速のツケを労使双方が押し付け合おうとするであろうこれから数年間、労働法を使いこなすことが労働者側には求められる。

被害者の裁判参加

 2日前のとある傷害事件の公判において、被害者が裁判中に被告から暴言を浴びせられて泣き出すというハプニングが発生したという。テレビドラマなどではよく見られる風景だし、発言内容も反論の域を出ない程度のものであったから、私などは占い師だという30代被害者女性の個人的な問題だと思うのだが、被害者の裁判参加による二次被害の懸念といった文脈で報道されているようだ。
 犯罪被害者の立場が注目を集めるきっかけになったのは、10年前の光市母子殺害事件だろう。残虐きわまりないこの少年事件で、被害者の夫である本村洋さんの「被告の人権は語られるのに被害者の人権は語られたことがない」との痛切な叫びが、犯罪被害者保護という今日の方向性をつくった。復讐心をむき出しにすることについての賛否はともかくとして、本村さんや岡村勲元日本弁護士連合会副会長の無念さを社会に訴えていく献身的な努力がなければ、犯罪被害者は今日も脇に捨てられる存在だったのかもしれない。
 しかし、犯罪被害者を救済することと、その意向や復讐心を裁判に反映させることは全く別次元である。これは裁判員制度にも言えることだけれど、民事裁判と刑事裁判の定義にも関わる根本的な議論をしないまま、責任をとらせるためにとりあえず裁判に参加させようという法曹の姿勢が見え隠れする。そもそも刑事罰は、私人の代理人である弁護士が提起するものではなく、法務大臣代理人である検察官が提起するものである。すなわち検察官による起訴は、法務行政の一環ともいうべき側面を有している。行政は、利害関係者に奉仕すべきものではなく、国民全体に奉仕すべきものである。検察官が行政官であり、刑事事件が行政対当該被告人(国民)という構図である以上、単なる情状の斟酌以上に利害関係者である被害者の意向を反映させることは、社会全体にとって相当な量刑のあり方を歪めることになる。最近の裁判でも、被告人本人と被害者の遺族が望んでいることを理由に死刑判決が出た裁判があったが、これなどは被告人と被害者の談合を裁判官が看過しているようなものである。
 では、犯罪被害者の救済はどのように行われればならないのか。刑事事件の被害者を刑事事件の裁判で救済しようとするから、ここまで述べたような矛盾が生じる。無辜の被害者の居場所は刑事事件の法廷ではなく、民事事件の法廷なのだから、被告人の不法行為について被害者の求めるべきものは、民事訴訟によって解決すべきである。もちろん私も、重大事件の被告人が賠償に耐えるだけの資力を持っているとは想像していないが、そこは倒産企業の賃金債権についてあるような国の立替払い制度(被告人の支払うべき金額の8割を国が立て替えて被害者に支払う)を立法化することなどで、容易に解決することができる。また、このように刑事と民事を分けて考えることによって、限りなく黒に近い灰色の被疑者について、刑事罰を課さずに、被害者の実質的な救済を図ることができる。

 最近、急増する死刑判決。その影には、被害者の権利保護を旗印に厳罰を嗜好する残虐な国民感情が見え隠れする。コロッセウムやギロチンはなくても、今の日本では、雑誌で死刑の特集をすれば飛ぶように売れる。こういうすさんだ国民感情の御輿に乗っている限りは、犯罪被害者が救われることは永遠にあるまい。被害者と被告人の人権は相反するものではなく、同じ理念で守ることができるはずだと思うのだが。

第140回 芥川賞選評

 30歳の誕生日を期して定期購読している雑誌のうち「法学教室」と「文学界」をやめたのだが、それ以降、本稿の芥川賞予想がどうも当たらなくなっているようだ。この間の各回の受賞作にはケチをつけたいところもあるし、受賞者が誰一人として受賞を契機として純文学の潮流をリードする位置に躍り出ていないことに鑑みると選考委員の判断には疑念も残る。しかし、だからといって私の読み方だけが当たっていたともいえまい。まあいい。自分自身への不安を感じながら、行間を追うことそのものにも、純文学のおもしろさがあるのだから。今回の候補作は、鹿島田真希「女の庭」、墨谷渉「潰玉」、田中慎弥「神様のいない日本シリーズ」、津村記久子「ポトスライムの舟」、山崎ナオコーラ「手」、吉原清隆「不正な処理」の六作品だった。
 正直なところ、今回は、既視感のある作品が目立った。実存主義構造主義など西洋思想を下敷きに人の内面を描写しようとする鹿島田さん、今の目線から過去の出来事を何層にも重ね合わせることで立体感を出そうとする田中さん、複数の人間の個性を描き分けにより人間関係にリアリティーを出そうとする津村さん、年齢差などを素材に恋愛なのかそうでないのか分からないような微妙な感情を表現しようとする山崎さん。いずれも、これまでの芥川賞候補作で見たことのある試みである。まあ、そうであったとしても、大事なのはその試みが成功しているかどうか。
 「女の庭」は、子供のいない専業主婦が近所に引っ越してきた外国人の独身女性の中に自分自身と共有するものを見るという話。作者の内面描写に複雑な構成は不要だけれども、この外国人があまりにも魅力的でなかった。倦怠感を描くのは結構だけど、小説自体にある種の緊張感がなければどうにもならない。「神様のいない日本シリーズ」は、プロ野球日本シリーズにおける3連敗4連勝の記録に祖父と父の青春時代を重ね合わせるという話。野球が全体を通して作為的でなく組み込まれているのはよしとして、母親の個性を十分には描ききっていないため、父のエピソードそのものが不鮮明なものになってしまった。
 「ポトスライムの舟」は、かつての同級生で、全く違う境遇となってしまった20代女性たちの交友関係を軸とした話。作者の個性の描き分けに毎回感心させられるのは置いておくとして、最初は、キャリアウーマンと既婚者の価値観の違いという単純な論点だったものが、一人の友人が離婚して子供を抱えて社会に放り出されるところから急に面白くなった。人間が人間関係なくして成り立たないのと同じように人間関係は人間なくして成り立たない。動と静の両方を描ききったという点では、候補作の中で最も完成度が高いといえよう。
 「手」は、おじさん好きの女性のさりげない日常。おじさんコレクションなど作りながら、性的な関係を持つのはすぐ上の先輩だというような微妙な設定もよい。また、一人称の文章でありながら、第三者である上司や先輩の性欲や打算の方がみえるというのもよい。しかし、この作者のこれまでの作品を超えていると感じるのは、おじさん好きの理由を説明的でなく見せる舞台装置が存在しているということである。山崎さんのこのあたりのファジーな感覚は、私個人としては津島さんの正確さよりもずっと好きだ。
 これ以外では、初めての候補作となる作品で「潰玉」と「不正な処理」があった。「潰玉」は若い女性から暴行を受けることに快感を覚える弁護士の話。女子高生などとの出会いが不自然で単なるマゾヒズムに陥っている。「不正な処理」は高校時代にプログラミングを通じての友人を死なせてしまったことと今の情報漏洩を結びつける話。時間設定があまりに冗長であり、作者が重く意図している設定が漫然と流れるために、オタクの一人芝居の粋を抜け出してはいない。ゆえに、今回の選評では、手法そのものは真新しくないものの、作者の思惑が当たったと思われる「手」を本命、「ポトスライムの舟」を対抗としたい。

 選考委員会は、きたる平成21年1月15日である。

千円の最低賃金

 この10月、北海道の最低賃金は「2年連続の大幅増額」で667円になった。644→654→667というのは、これまでの上げ幅からみれば確かに大きいし、3時間2千円という働かせ方が違法になったという意味では今回の改正も一応の意義があろう。しかし、いわゆるワーキングプアをなくすという価値観でみると最低賃金が千円は必要になる。
 時給千円というと随分と割がいいように聞こえるがどうだろうか。フルタイム労働者であれば、一日8時間・週5日・年50週の勤務として年2000時間だから年収200万円に過ぎない。これに厚生年金15万円、国民健康保険8万円、所得税7万円、住民税14万円を控除すると手取りは150万円強。住宅費などを考えると、扶養者がいなくとも最低限度の生計費にしかならない。しかし、それにも関わらず大幅な最低賃金の切り上げがなされない要因は自民党よりも連合の側にあるように思えてならない。連合は組織率15%程度であるだけでなくその組合員が大企業の正規従業員に偏っており、もはや全ての労働者の代表というべき立場にはない。企業の総人件費が抑制される中で最低賃金のみを切り上げれば、そのしわ寄せが正社員の方にいくおそれがあり、それゆえ格差是正を叫びながらも、連合として切り上げを真っ向から取り上げることに躊躇してしまうのだろう。労働組合が正社員の特権的な身分を守ることに汲々とする矛盾。このことに問題意識を持つ組合役員も多いが、個々の組合員の利害関係のために産別の組織としての声にならないでいる。まあ、地方公務員で自治労の組合に加入している私は、それを評すべき立場にもないのだけれど。
 私は最低賃金を全国一律千円にすべきだと考えているが、その理由は格差是正だけにあるわけではない。今の最低賃金では生計を立てることは困難であるが、社会と関わりを持ちたい主婦のようなボランティアに近い動機、あるいは職場というところを体験してみたい学生のようなインターンシップに近い動機で就業することもあり、最低賃金を生計費と同一化させるとこのような就業の需要に応えられなくなるからだ。私が賃金千円を主張するのは、これがインフレを導くものだから。
 最低賃金が千円になっても、それによって物価が上がるからワーキングプアはなくなるまい。しかし、貨幣価値が下落の方向にあると、未来ではなく現在の使用が有利になるため消費が拡大することになる。円の価値の下落は、すなわち外貨との比較で円安なのだから輸出にも有利になる。なんといっても国と地方と合わせて千兆円にもなるという政府の借金。これがインフレになれば軽減されることになる。最低賃金を序々にではなく一気に上げることで物価上昇(貨幣価値の下落)の引き金を引くというのが財政再建と景気回復の両方で躓いている日本にとって一石二鳥の処方箋になる。
 そういう私の考え方でいけば、与謝野馨経済財政担当大臣の「悪魔的手法」というインフレ観はどうも気に入らない。大恐慌時のドイツのようなハイパーインフレは論外であるが、安定したインフレはケインズでさえも評価したものであった。現状を打開する最も現実的な扉であり、それを開くのが最低賃金の改正という鍵だと思うのだが。